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アーティストインタビュー
岩波滋
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宮本卯之助商店創業150周年を迎え、太皷館では日本の伝統文化の歴史、そこに見え隠れする先人たちの知恵や感性を今一度見つめ直し、そしてそのすばらしさを未来を担う人々へ発信していこうと、特別展「雅楽の四季」を開催する運びとなりました。
このオープニングに際し、元宮内庁式部職楽部首席楽長であり、現在は「鳳笙雅楽研究所」を主宰し雅楽の普及活動にご尽力されている岩波滋氏をお招きし、弊社会長宮本卯之助との対談及び記念講演をしていただきました。
岩波滋先生と会長対談
対談風景 会長 先生は昭和16年に松本にお生まれでして、小学5年ときに浅草へお移りになられました。私も同じく昭和16年に浅草で生まれ、浅草で育って参りましたが、まぁ何と申しましょうか、恐れ多いのですが、先生とは浅草という土地で同じ空気を吸ってきたということもあり、(先生が)楽部にいらっしゃった頃からお付き合いをさせていただき、いろいろとお教えいただいたという関係でございます。
また、私ども土浦から浅草に出て参りまして、太鼓を主に造らせていただいておりますが、大正天皇の御大喪の礼の際、雅楽器一式を納めさせていただき、以来、宮内庁の御用達を賜り、楽部へ太鼓を中心とした雅楽器を納めさせていただいております。そのような関係で、宮内庁楽部にお世話になっているところでございます。

岩波先生 今お話いただいたように、私は信州人でございますが、父親を亡くし叔母を頼って浅草へ出て参りました。現在本店があります聖天町からは近いところにおり、宮本卯之助商店の戦後の隆盛時代はよく知っております。浅草へ最初に出て参りましたは、小学3年、昭和24年の秋頃でしたがカルチャーショックを受け、それでいったん戻りまして再度浅草に出て来たのが小学5年、宮本卯之助商店から近いところにある富士小学校というところに通っていました。またその時は昭和25年に起きた朝鮮戦争の特需で景気が大変良く、浅草の人出の多さに衝撃を受けたのを記憶しています。
ちょうどこの(西浅草店)前に国際通りがございますが、ここには国際劇場などがあり、それこそ美空ひばりがショーをすれば満員の大盛況、そして六区には富士館だとか常盤座など、通りに映画館がずらりと並んで歩くのに人の肩がぶつかるほど、本当に大隆盛でした。小学高学年、それから中学に入ってから、浅草に入り浸りという時期が実はございました(笑)。今ではすっかり有名になったお笑いのビートたけしが浅草で修行をしていた頃です。
また、その頃は戦後の復興期で、戦争で各神社が被災をしてしまって、お神輿などはずいぶん三社様の地区では燃えてしまったんですね。それで宮本卯之助商店の今の会長さんのお父様は皆に喜んでいただくために、お神輿をどんどんつくってお貸しして、それが都電通りにずらりと並んだことを今でも覚えています。5月の三社様に始まって6・7月などは近在の地区にはそれぞれ神社がありますので、私たち子供にとっては毎回神社廻り、と言いますか、お祭り廻りで、本当に楽しい思いをしたのを覚えております。

会長 私も三社祭のときには、学校も早く終わり、それからはずっとお祭りをやっていたのを覚えています。先生は私以上に何でしょう、"浅草の悪がき"とでも申しましょうか、映画館にはずいぶん出入りしていたと伺っていますけれども(笑)。私は大映の切符をいただいて観に行きました。嵐寛壽郎の「鞍馬天狗」などが大好きで、風呂敷を使ってそんな格好を真似した思い出があります。

岩波先生 子守をしてお小遣いをもらっては、映画館へ行っておりました。子をおぶりながらマントの代わりに風呂敷を背中にまいたりして(笑)。
実は、こういうお話をさせていただいたのも、雅楽とは全く関係のないようで、繋がっていることだと思っているからなのです。太鼓であろうとも、お神輿でも、日本の伝統の技術は継承がないと成り立たない。それはただ継承すれば良いというものではなく、その地域地域の特徴を楽しむ、また誇りということがあったように思うんです。それが今では一種のファッションのような形になってしまって、時代でしょうか、ですから、懐かしさとともにそのお話をさせていただいたのですけれども。

会長 先生は子守をしてお小遣いを稼ぎ、大変苦学をされて宮内庁楽部に入られたのだと伺っております。雅楽は、多(おおの)、豊(ぶんの)、東儀(とうぎ)、芝(しば)など、1000年以上も前から雅楽を継承してきた楽家がありますが、都が奈良から京都、そして東京に移されると、それら楽師さんたちも一緒に移ってきたわけですね。もちろん大阪などに残っている楽家もございますが。そのような中で、民間から楽師になり、そして(首席)楽長(註:宮内庁式部職楽部における楽師の長)にまでなられたのは先生が初めてと伺っております。

岩波先生 苦学などと言われますと大変お恥ずかしいのですが・・・・・・。初めてと言われればそうなのかもしれませんが、ご縁だと思います。民間からなることは今はそんなに難しいことではないのですが、日本は明治維新の時に、三方楽所(さんぽうがくそ)、つまり京都・大阪・奈良の楽人たちが東京に来て、それと同時に雅楽をそれぞれ知らせて良いというような政令が出ました。つまり、誰でも雅楽を出来るようになったんですね。その頃、楽家とは違った方たちも入っております。入られたのは、雅楽と関係が深い方、戦前の頃には宮内省と縁故がある方、大方はその後、楽家を継ぐという形で養子と言いますか、姓をいただいているので、民間の姓はあまりないのですけれども。

会長 楽部への受験を決められたのには、何かきっかけなどあったのでしょうか。

岩波先生 私の場合、浅草の映画館で観たグレン・ミラーの映画でトロンボーンに憧れていたこともあり、そして中学2年のとき、雅楽の舞台で楽部の方々が洋楽を演奏するのを観させていただいたのがご縁だったと申しましょうか。入るきっかけとなったのは親戚の義兄の勧めと、好きな音楽を官費で勉強できること、少しでも早く母親を楽にさせてあげたいという思いから楽部の試験を受けようと決心いたしました。
そして予科楽生として楽部に入ったのが中学3年。その頃、楽部の後継者の問題は悩みであったかと思います。

会長 宮内庁の楽師さんたちは、本業は雅楽なのですが、洋楽なども演奏されるのですよね。

岩波先生 はい。両陛下が外国のお客様をおもてなしする午餐、晩餐会でバックミュージックとしてオーケストラを演奏いたします。それと申しますのも、明治の頃に日本は独立国家として、外国との交流が多くなってきますと自前の演奏団体が必要になってきたようです。当初は海軍の軍楽隊を頼んでいましたがそれが間に合わなくなり、楽器をやっている楽部の人間ならばできるだろう、という話だったんですね。オーケストラとして洋楽を正式に演奏する団体としては(楽部が)初めてで、その後日本の洋楽の発展を考えますと、楽部の役割は大変大きかったと思います。

会長 私どもの太皷館も雅楽というものを本格的に取り上げるのは、これが初めてなんですね。雅楽というのは、多くの人が知ってそうで、その内の9割の人が、残念ながら実際に演奏を見たことがないのではないかと思います。そんなところで今日は、先生の雅楽に関する貴重なお話をしていただければと思っております。
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